AV女優と神の国

たとえば、飯島愛さんはAV女優からTVタレントに転身し成功したものの、ツイッターなどの発達によって、視聴者の目が厳しくなり、いたたまれなくなって引退した結果、全財産を失い自殺してしまった。これは、必然であろうか。私はそうは思わない。私は予知夢を見るので運命論者である一方、私たちの自由意思は物事の進展を大きく変化させるものであることもまた事実である。私は最近、始めた健康麻雀で、私たちの自由意思のいかに重要であるかということを悟りました。麻雀の13牌の手牌は、完全に私たちの自由意思によって変化するもので、その結果勝敗が決定する。もちろん、麻雀の勝ち負けは人生において、そんなに重要なことではないかもしれないが、私たちの自由意思によって物事が大きく左右されることを保証するには十分な根拠とであると考えるわけです。

その事実は、飯島愛さんがもし神の国を知っていたなら、と考えた場合に人間の自由意思が十分にその人を救いうるものであることを裏付けるものであるわけです。全財産を失った彼女を神は放っておかなかってであろう。そう思うわけです。彼女の自由意思は、彼女に新しい命を与えたに違いない、そう思うわけです。イエスは、誰よりも早く、娼婦たちが神の国に入るであろうと予言した。AV女優も娼婦ですから、有名な娼婦であるマグダラのマリアのように彼女は新しい命を勝ち得たであろう、そう思うわけです。したがって、私は彼女が自殺したことは決っして必然ではないし、麻雀における勝ち負けも決して偶然によって成り立つものではない。麻雀において私たちの自由意思がいかに重要な役割を果たすものかということを学んだ今、私はそう考えるわけです。

したがって、私は運命論者であると同時に、ものごとの進展にかかわる私たちの自由意思のいかに重要であるかということを信じる人間でもあるという、二つの相対する価値観を共有する者であるというわけです。したがって彼女の死も決して必然ではない。たまたま神の国をしらなかっただけである、とそう考えます。その裏付けとなるのが、麻雀の教えてくれる自由意思が演じる未来の進展であり、それを考えると飯島愛さんの死はけっして必然ではなかった。私はそう考えるわけです。イエスの生涯がそうであるように宗教にたずさわっていると運命論ばかりに偏りがちですが、私はイエスの数々の名言もまた、その場その場の機知によって生まれた偶然の産物であると考える。彼の名言は、その場その場のひらめきの産物であると、福音書を繰り返し繰り返しひるがえした私はそう考えます。それ故に彼の名言は、永遠に今も新鮮な響きをもって私たちに訴えかけるものである、とそう考えるわけです。それを教えてくれるのが、麻雀において私たちがかたむける13牌の手配に対する自由意思の働きとそのぶつかり合いによって生まれるゲームのドラマ性であるわけです。これはやった人にしかわからないので、自由意思の価値を疑う人々には麻雀というゲームはぜひためしてみていただきたいゲームであります。

したがって私はこう考えます。「麻雀は飯島愛さんを救をことができるはずだった」と。

それに対して、あきらめることが救いであると教える宗教がある。仏教である。したがって、仏教徒は言うだろう、彼女の死は必然であると。しかし、私たちにそんな宗教は必要はありません。そのことを麻雀は教えてくれるわけです。もちろん、信仰のない自由意思は危険である。あるいは、信仰に反する自由意思は危険である。しかし、本当に信仰に基づく自由意思はけっして危険なものではない。信仰は十戒に裏付けられているものであるからだ。ここでは私たちの自由意思を保証する「聖霊」の存在について詳しくは書かないが、聖霊は人間を十戒に導くものであると簡単に考えてもらって結構です。したがって犯罪を犯すようなクリスチャンは、「聖霊に言い逆らうものはゆるされない」と言ったイエスの教えを無視いていると考えていただいて結構です。そのようなクリスチャンは火の地獄を経験しあるいは魂ごと焼き尽くされることがあってもおかしくない。私たちクリスチャンの自由意思は聖霊に忠実である、つまり十戒に忠実であって初めて保証されるものである、とそう考えてもらって結構です。健康麻雀における自由意思はけっして十戒に反するものではない。そして、それをもっと拡大解釈すると、そのような自由意思は飯島愛さんを救うこともあるいはできたはずだった、と私は考えるわけです。

したがって、私はある種の人々の反感を買うことを覚悟のうえで、「あきらめ」を推奨する仏教はあまりいい宗教ではないと、そう言いたい。そして、両方の見解を伝えたうえで、どちらかを選ぶ皆さんの自由意思を私は保証するものである、というそれだけの話です。飯島愛さんを殺した宗教と、飯島愛さんをあるいは救いえたもしれない宗教のどちらを選ぶかは皆さんの自由意思の決定するところである。

一般的には日本人は環境によって仏教を選ぶ傾向にあるのは事実ですが、キリスト教という選択肢が無縁でないことは、欧米を中心とした全世界の証明するところである。したがって、頭の隅にはそういう選択肢もあれば、そのような悲劇が起こることはなかったはずであると、私は考えるわけです。クリスマスが神聖であることはだれもが知っているがその理由を知りたがらない仏教徒というのが私の定義する「優柔不断な一般的な日本人」である。したがって、たとえば創価学会をきっぱりと選んでいる点においては、学会の人たちは、一般的な日本人よりはよっぽどいさぎよい人たちだ言ってもいい。しかし、彼らはキリスト教徒を迫害するので、私は個人的には好きではないが、どちらも選ばない日本人よりはよっぱどましなんじゃないかと思う。彼らの心の支えは「選民思想」というもので、極楽浄土を保証する思想であり、学会に献金することで自由意思を保証するというものであって、人間の魂とは無縁のものであり、そのような自由意思はあまりタチの良いものではないというのが私の個人的な見解ですが、自由意思を放棄している人々から比べたらよっぽどましなんじゃなかと思う面もある。正確には、私の信仰とは「聖霊」の保証する自由意思であるが、これだと意味が通じないので、「十戒の保証する自由意思」と考えていただきたい、そして、それは決して危険なものではなく、クリスチャンであってもたまにそれに反する行為をする場合もありうる、というのはノンクリスチャンのもっている蓋然性となんら変わることのないものであると考えていたきたい。したがって、私は筋金入りのクリスチャンだが、常識と非常識の分別のつく人間で、決して危険な人間ではない。宗教×統合失調症=危険人物という方程式があるのは事実かもしれないが、それは新興宗教の場合で、キリスト教が今も新鮮な息吹をもって世界を席巻している点においては、キリスト教は決して古い宗教ではありませんので、人々が恐怖するのも無理はないが、改宗前のローマ帝国もかつてはキリスト教徒を恐れた。それは現代日本も同じことです。現代日本においては西方教会がイースターの集団洗礼以外で洗礼を行うことは原則としてありませんので、私のような成人改宗者が生まれることは極めてマレであり、そのことが皆さんを惑わせる最大の要因であると私は考えます。まだ神の国がこないのか、もうすでに戦国時代にきてしまったのか、私にはわかりません。はっきりいってしまえば、日本の千年王国は戦国時代にはじまり、もう終わりかけているのだというのが、私の見解です。豊臣秀吉からはじまり、江戸幕府も恐れたキリスト教徒の歴史は、もう終わりかけているのでしょう。それが日本のキリスト教であると私は解釈しています。私の代母はフィリピン人なので、私は日本人ですがフィリピン生まれのキリスト教徒です。フィリピンという国も、大航海時代のクリスチャンたちの末裔だけで成り立っている国でもはやキリスト教は形骸化しております。千年王国はもう終わりました。そして、私たちはただただ、世の終わりを待つばかりですが、世の終わりまで、愛と平和のために生きていきます。ラブ・アンド・ピースはジョン・レノンが提唱したもので、「イマジン」で歌うようにかれは一見、キリスト教を信仰の対象としていないように思えますが、彼のように無自覚に生まれつきクリスチャンの体質をもっている人物は少なくありません。作家では19世紀フランスのエミール・ゾラなどがあげられると思います。殺人の本質を描いた処女作にして代表作である「テレーズ・ラカン」はキリスト教的罪の観念を描いたものと私は解釈しております。したがって、ジョン・レノンの提唱したラブ・アンド・ピースの観念もキリスト教に由来するものであると私は解釈しております。そして、すべてのクリスチャンが自分の極楽浄土のためではなく、愛と平和のために生きることを目的とするものである、というのが私たちの信仰であります。そして、それが私たちの理想とする「役満」であり、そのために13牌の手配を自由意思によって最大限に活用することが私たちの生きる理由であります。そして、「そのような自由意思があれば、だれも自殺などすることはなかったのに」という思いが、飯島愛さんの死を思うにつけ残念でしかたがないわけです。一体、イエス以外に誰が彼女を救うことができたか、そして、イエスならば必ず彼女を救うことができた、したがって、もし彼女に神の国への希望があったなら、彼女は自殺する必要など全くなかったはずなのに、と思うにつけ残念でしかたがないわけです。

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